特製マカロニサラダ2017年01月18日 13:12

今日の特選料理は、このHP&ブログを毎回見てくれている人はもうご存知の大人気メニュー・・・


    特製マカロニサラダ 250円


わかりやすくマカロニサラダといネーミングにしていますが、実際はマカロニではなく、蝶ネクタイに似た形のファルファッレというパスタを使っています。


        ファルファッレ


このファルファッレは、羽にあたる薄い部分は柔らかいのに、中心部は歯ごたえが残っているという、独特の食感が持ち味のパスタです。

売り切れ必至なので、早い者勝ちですよ~(^o^)


さてさて、

今日1月18日は『振袖火事の日』です。

振袖火事』とは、1657年(明暦3年)に起きた『明暦の大火』の別名です。

江戸時代の歴史に詳しい人ならご存知でしょうが、3日間に及んだこの大火で、江戸の街の大半(55%以上)が焼け、江戸城の天守閣も焼け、10万人以上の死者も出ました。

で、どうしてこの大火のことを振袖火事』と言うのかというと、これがオカルトチックなんです。

長くなりますが、興味深い話なので、お時間のある方は読んでみてください。

《おきく》という若い娘が、とある美少年にひと目惚れして、その美少年が着ていた着物と同じ模様の振袖を作らせました。

で、《おきく》がしたのは、その振袖を抱きしめては、毎日毎日その美少年を想いつづけたのです。

まず、この段階でちょっとヤバいですよね(^_^;)

そして《おきく》は恋の病で死んでしまいます。

その後、振袖は古着屋に売られ(当時はそれが当たり前でした)、それを買った《おはな》はすぐに病死してしまいます。

次にその振袖を買った《おたつ》も、同じようにすぐに病死します。

そんなこんなで、この振袖はヤバいということになり、本妙寺で供養してもらうはこびになるのですが、

和尚が読経しながらその振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、

突如つむじ風が吹き、振袖が舞い上がりました!ヽ(#゚Д゚)ノ

火がついた振袖が本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中を焼き払う大火となった・・・

というのですが、

これはどうやらあとから作られたデマらしいんです。

というのも、

その日は朝から強風が吹いており、わざわざそんな日に火を炊くような供養をするはずがないのです。

江戸時代、火事の火元には厳罰が科されました。事実、別件で火事をだして焼失したお寺は、以後50年間も再建を許されなかったという実例もあるほどです。

なのに、

『明暦の大火』の火元とされている本妙寺はお咎めなしで、それどころか、幕府によってすぐに再興され、その後も厚遇を受けているのです。

あやしすぎるでしょ(-_-;)

幕府に頼まれ、本妙寺が火元の濡れ衣を着た

というのが、この件に関する研究者共通の見解みたいです。

本妙寺の隣には老中の阿部忠秋邸があり、そこが火元だったのではないかという説が有力です。

幕府の老中がこの大火の火元とあっては幕府の権威が失墜すると懸念し、のちの厚遇を約束して本妙寺に火元の汚名をかぶってもらった・・・。

それを証拠づけるように、火事後、阿部家からは供養代として毎年(しかも関東大震災があった1923年まで)本妙寺に寄付が行われています。

〈ああ、これはもう決まりだな〉

そう思った方に、他の事実を提示します。

この火事のあと、まるで予定していたかのように江戸の街は迅速に整備されていきます。

当時の江戸は人口が急増して飽和状態でした。無計画に増えてしまった人と家のせいで、幕府は思うような街づくりができないことに頭を抱えていたという現状だったようです。

〈何もかもまっさらにして街づくりをやり直せたらいいのだがな・・・〉

幕府がそう思っていたとしたら、どうでしょう。

冬で空気が乾燥し、朝から強風が吹いていたその日、大火を生み出すには絶好の気象条件です(-o-;)

それに、

火元は本妙寺の他にもあと2ヶ所あります。本妙寺から出火したあとで、追い火するかのように、まるで燃えてほしい場所が燃えなかったからこれでは困るとばかりに、2ヶ所から火が出ているのです。

補足ですが、

阿部忠秋は人望の厚い人格者と評判の人物で、自己保身のために罪を他に押し付けるような卑劣な人ではなかったそうです。

なにより、

前述のオカルトチックな具体的かつ詳細なデマを作りあげ、振袖火事』などという大火の別名まで用意したのは、真実を隠蔽しようとする何か大きな力が働いているに違いないと考えるのは乱暴でしょうか?

余談ですが、

当時、松の内は15日で、それまではそれぞれの家に門松が置いたままでした。

半月も門松を飾っていては、もしもまた同じような大火が起こったら、門松が火事の延焼を助けてしまう。そうしたらせっかく計画通りに作った江戸の街が焼失してしまうではないか。

そう考えた幕府は、『明暦の大火』の翌年から松の内を7日と決め、それまでには門松を片付けるようにというお触れを出しました。

いったい、

『明暦の大火』の真相はどうなのでしょう?

ああ、タイムマシンがあったらな~(o´_`o)

タイムマシンがあったら・・・



正月で負けた競艇をやり直せるのになぁ(*´ー`)

『明暦の大火』の真相を探りに行くんと違うんか~い!ヽ(#`Д´#)ノ
(↑アナタの怒りツッコミ)

コメント

_ manicure ― 2017年05月04日 20:48

When someone writes an paragraph he/she keeps the
idea of a user in his/her mind that how a user can know it.
So that's why this article is perfect. Thanks!

トラックバック