いんげんのゴマ和え ― 2016年12月14日 14:39
ゴマ和えって、何にやってもおいしいと思いませんか?
ってことで、今日もゴマ和え用意しちゃいました。

いんげんのゴマ和え 150円
さて、
今日12月14日は『忠臣蔵』こと赤穂浪士四十七士が、本所の吉良邸に討ち入りを決行した日です。
『忠臣蔵』とはこの赤穂浪士によるあだ討ちの一件(『赤穂事件』)を歌舞伎の演目用に脚色した『仮名手本忠臣蔵』などの様々な作品のことで、史実とは違っている部分があります。
と言っても、
史実もはっきりとしていないところがあり、『忠臣蔵』は謎が多い事件なのです。
はっきりしているのは・・・
吉良上野介(きらこうずけのすけ)が、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)をいじめたり、けなしたりしたという記録は残っていないということです。
なにしろ、筆頭家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)も、ほかの46人のだれも、主君の浅野内匠頭が吉良上野介をなぜ斬りつけたのかを知らないのですから。
記録にも、
《理由はわからないが、よほど腹にすえかねたことがあったのだろう》
というようなことが書いてあるだけで、みんな心当たりがないのです。
ここからはあくまでも推論ですが、こういうようなことがあったのかもと考えてみました。
吉良上野介は幕府の何かの秘密に関与していて、自身の処遇に納得がいかず、それを暴露しようとしていた。
それによって実害をこうむるお偉方が、吉良の口を封じるための手段として、幕府の礼式の当日に、浅野内匠頭にこういうようなことを囁いた。
「内密な話だが、なんとかして松の廊下で吉良を挑発して怒らせてくれ。刀を抜かせてくれさえずればいい。あとはこっちでうまいことやるから。そなたが刀を抜いたとしても、それは不問にするように計らう。もちろん、そなたの処遇はいまより手厚くする」
当時、吉良は62歳、浅野は35歳。浅野は正直世間知らずのボンボンで、しかも癇癪持ちだったそうです。浅野ならうまく言いくるめられると思ったのでしょう。
城内で当日に言われたのなら、赤穂浪士の誰も主君の斬り付けの理由を知らないのにも、合点がいきます。
浅野にしてみれば、事が事なだけに、断るという選択肢はありません。言われたとおり、吉良を怒らせて鯉口を切らせるしかないのです。
ということで、松の廊下で浅野は吉良を挑発しますが、吉良はそれにのりません。年齢を重ねているだけあって、ここで狼藉を働けばどんな言い訳も通らないことを熟知していたからです。
焦った浅野は背後から吉良に斬りつけます。このあとは、皆さんご存知のとおりです。吉良は無抵抗でしたので、浅野だけ切腹となりました。
当時は喧嘩両成敗が常識でしたので、吉良も刀を抜いていれば、浅野と同様の処遇になった可能性が高いのですが、なにしろ吉良は無抵抗でしたから。
消えてもらいたいのは吉良の方なのに、どうでもいい浅野が消えることになって、焦ったのは吉良の殺害を企てたお偉方です。
吉良も口には出しませんが、浅野が自分に斬りかかったのは、個人的な恨みではなく、自分の存在が邪魔になった幕府のしわざだろうと察します。
どうしても吉良には消えてもらわなければ、安心はできないと考えた幕府は、赤穂浪士をたきつけてあだ討ちをするように仕向けます。
なにしろ、お家取り壊しとなった赤穂藩の浪士たちは、いきなり無職なのです。田舎に帰って細々と農業をするか、いちかばちかでもうひと花咲かせ、どこかに仕官するしか道はありません。
江戸の町では、赤穂浪士が吉良にあだ討ちをするに違いないということで盛り上がっていましたし、忠義の浪士たちと言うことで人気は吉良よりも赤穂浪士の方にありました。
そして、1702(元禄15)年のこの日に、討ち入りとなって、見事に吉良の首を取ったわけです。
もちろん幕府は赤穂浪士の動きを知っていたはずです。それなのに、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、その後、泉岳寺まで歩いているときも幕府の同心たちに捕縛されなかったのは、幕府が背後で糸をひいていたからに他なりません。
本来なら、ここで赤穂浪士47人の処遇をうまく取り計らう予定だったのかもしれません。
ですが、あだ討ちを容認してしまえば今後にも影響がでる・・・という他の藩主たちからの声を無視できずに、47人を打ち首にしたのです。
長くなりましたが、・・・というような推論です。あくまでも推論ですが。
皆さんはどう思いますか?
個人個人のいろんな思いを胸に、『忠臣蔵』を観ると、またおもしろさが変わってくるかもしれませんね(*´ω`*)

先月ですが、吉良邸跡を見てきました(*´ー`)